1.修祓 2.修行 3.鎮魂
  
1.修祓

教義では、

 先ず霊峰石鎚山へ登拝するには、海や河、滝にて禊をし、清浄な身体となり、石鎚修行に入る。
即ち
人間浄化の第一歩である。
 
 ここで一番大切な言葉は、身体(心・身体)を「禊ぐ」ということになります。
教義では、「身体」とあるが、「心」を含めてのということを否定する余地は無いと思います。
 
 さて、「身体」を「禊ぐ」ということは、身に付いた穢れ、例えば記紀神話にあるような「死」と言うものに触れた穢れを「水」の力により清浄なものにすると言うことです。
「身体」の禊と言うことは、垢を落とすようなもので、ニュアンス的には比較的理解出来るのではと考えます。
 
 但し、「心」を「禊ぐ」ということは、不可解な部分が多いのではと思います。
それは、「心」という取り留めも無いが故に、掴めそうで掴めないのです。
従いまして、肝心な「心」を「禊ぐ」べく、「心」とは何ぞや?ということ、そして何処を「禊ぐ」かと言うことを述べて行きたいと思います。

 
 
 ひとつの例として、梅干しを食べたことのある人に、「梅干しを見て酸っぱいと思いますよね?」と聞くと、口を揃えて「酸っぱい!」と答えるのではと思います。
「酸っぱくないよ!」と答えると「おかしいよ!」と大方の方が思われるのではないでしょうか?
 
では、何故、梅干しを見て酸っぱいと思うのでしょうか?
 
 これは、自らが作り上げた固定観念から来るもので、それが「心」だと思います。
 
 梅干しを食べたことが無い人が、初めて梅干しを見て酸っぱく感じ唾液を出す人はいませんよね?
 
 
 これは、
梅干し ---------------- (対象)
これを味わう舌 ---------------- (入り口)
この二つの係わり ---------------- (初めての係わり)
 
この係わりの中で、
 
舌で味わい、 ---------------- (感じる)
酸っぱいと感じ ---------------- (想像する)
梅干しは酸っぱいと判断し ---------------- (確認、判断)
全ての梅干しを見ると
唾液が出る。
---------------- (認識、決めつけ)
 →固定観念、色眼鏡、自分の物差し

この例は、梅干しだから、どなたにも迷惑をかけることがないと思われますが、これが個人や社会に向けられたものであればどうでしょう?
 
 「あの人は・・・・と言う人だ!」と言う「固定観念」だけで済むならまだしも、「恨み」「妬み」「そしり」という風に「色眼鏡」「自分の物差し」で、本質を見ようとせず「歪んだ見方」に陥ってしまうのです。
 
 例えば、人を見る時にその人の「人となり」でなく、重箱の端をつつく様に、あの人は、あの様な人だと言う固定観念(歪んだ認識)で・・・、年が幾つ?とか、役職が何だから?とか、何処に何年いた?とか・・・。
 
 全て入り口からの清浄が大切なのではないでしょうか?
 
 「根(入り口)」・・・、即ち、心の入り口を清浄にすることに始まり、自己の判断で認識・決めつけ、「固定観念」からくる「恨み」「妬み」「そしり」という風に「色眼鏡」「自分の物差し」になって本質を見ようとせず「歪んだ見方」に陥ってしまうと言う「心の動き」を「禊ぐ」ということが「心の禊」ではないでしょうか?
 
 決して、「梅干しを酸っぱい!」と思ってはいけないと言っているのではないのです。
最近、減塩・酸っぱさを抑えた梅干しもあるのです。
 
 「さらり」と味わう気持ちを持つことが大切なのです。
 
 でなければ、固定観念(歪んだ認識)の発端となり、いつも色眼鏡を架けて「物事の本質が見えないまま」で時を過ごすことになります。
 
 これが理解出来ずして、修行鎮魂もありえないのです。
 
 ですから、「六根清浄」と唱えながら山に入るのです。
 
 これは、六根(感覚の入り口)を清浄にせずして・・・、神の声?神人合一?・・・あり得ないと言うことです。

因に

六根
(入り口)
六境
(対象)
六界
(係わり)

(感覚)

(想像)

(判断)

(認識)
色(物) 眼界
声(音) 耳界
鼻界
舌界
身界

(第六感)

(雰囲気、空気の流れ)
意識界

 清浄の究極は、「般若心経」を通じての説明ではありますが、「神仏より授けられた本来の自己」「即ち神仏の御心に沿った自己に立ち返ること」、それは前述のことではないでしょうか?
 
 ということは、例としてあげた、「梅干しを見て酸っぱいと思いますよね?」と皆さんに固定観念を植え付ける様な、又、思い出させる様なことも「禊ぐ」必要があることになるのも事実であることは、上述のことでお分かりのことと思います。
 
 では、なぜこの「雑音(ひとまとめにして・・・)」がそれぞれの入り口から入り、「心の動き」となるのでしょうか?
 
 否!!!入って来るのではなく、私たち自らが「集めているのです!!!」
 
 これが「無無明・・・亦無老死尽」という12因縁の仕組みです。
 
 入り口のフィルターも「汚れ・詰まり」、認識という「固定観念」でネジ繰り回しているだけのことです。
 
 入り口からは「何が入って来ても良いのです!!!」、「また、勝手に入って来ます!!!」・・・ただし、「さらり」と味わう気持ちを持ちましょうよ?
 
 これが「無?礙、無?礙」と言うことです。
 
例えば、台風の中、窓ガラスが割れんとするを心配し、手で押さえるより、どうせ割れるなら怪我のしない方法を取ること・・・これが「雑音」を「快音」と受け入れる手立てではないでしょうか?
 
 これが「無苦集滅道」という方法なのです。
 
 

  「2.修行」

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