ひとつの例として、梅干しを食べたことのある人に、「梅干しを見て酸っぱいと思いますよね?」と聞くと、口を揃えて「酸っぱい!」と答えるのではと思います。
「酸っぱくないよ!」と答えると「おかしいよ!」と大方の方が思われるのではないでしょうか?
では、何故、梅干しを見て酸っぱいと思うのでしょうか?
これは、自らが作り上げた固定観念から来るもので、それが「心」だと思います。
梅干しを食べたことが無い人が、初めて梅干しを見て酸っぱく感じ唾液を出す人はいませんよね?
これは、
梅干し |
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境(対象) |
これを味わう舌 |
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根(入り口) |
この二つの係わり |
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界(初めての係わり) |
この係わりの中で、
舌で味わい、 |
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受(感じる) |
酸っぱいと感じ |
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想(想像する) |
梅干しは酸っぱいと判断し |
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行(確認、判断) |
全ての梅干しを見ると
唾液が出る。 |
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識(認識、決めつけ)
→固定観念、色眼鏡、自分の物差し |
この例は、梅干しだから、どなたにも迷惑をかけることがないと思われますが、これが個人や社会に向けられたものであればどうでしょう?
「あの人は・・・・と言う人だ!」と言う「固定観念」だけで済むならまだしも、「恨み」、「妬み」や「そしり」という風に「色眼鏡」や「自分の物差し」で、本質を見ようとせず「歪んだ見方」に陥ってしまうのです。
例えば、人を見る時にその人の「人となり」でなく、重箱の端をつつく様に、あの人は、あの様な人だと言う固定観念(歪んだ認識)で・・・、年が幾つ?とか、役職が何だから?とか、何処に何年いた?とか・・・。
全て入り口からの清浄が大切なのではないでしょうか?
「根(入り口)」・・・、即ち、心の入り口を清浄にすることに始まり、自己の判断で認識・決めつけ、「固定観念」からくる「恨み」、「妬み」や「そしり」という風に「色眼鏡」や「自分の物差し」になって本質を見ようとせず「歪んだ見方」に陥ってしまうと言う「心の動き」を「禊ぐ」ということが「心の禊」ではないでしょうか?
決して、「梅干しを酸っぱい!」と思ってはいけないと言っているのではないのです。
最近、減塩・酸っぱさを抑えた梅干しもあるのです。
「さらり」と味わう気持ちを持つことが大切なのです。
でなければ、固定観念(歪んだ認識)の発端となり、いつも色眼鏡を架けて「物事の本質が見えないまま」で時を過ごすことになります。
これが理解出来ずして、修行も鎮魂もありえないのです。
ですから、「六根清浄」と唱えながら山に入るのです。
これは、六根(感覚の入り口)を清浄にせずして・・・、神の声?神人合一?・・・あり得ないと言うことです。
因に
六根
(入り口) |
六境
(対象) |
六界
(係わり) |
受
(感覚) |
想
(想像) |
行
(判断) |
識
(認識) |
眼 |
色(物) |
眼界 |
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耳 |
声(音) |
耳界 |
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鼻 |
香 |
鼻界 |
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舌 |
味 |
舌界 |
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身 |
触 |
身界 |
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意
(第六感) |
法
(雰囲気、空気の流れ) |
意識界 |
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清浄の究極は、「般若心経」を通じての説明ではありますが、「神仏より授けられた本来の自己」、「即ち神仏の御心に沿った自己に立ち返ること」、それは前述のことではないでしょうか?
ということは、例としてあげた、「梅干しを見て酸っぱいと思いますよね?」と皆さんに固定観念を植え付ける様な、又、思い出させる様なことも「禊ぐ」必要があることになるのも事実であることは、上述のことでお分かりのことと思います。
では、なぜこの「雑音(ひとまとめにして・・・)」がそれぞれの入り口から入り、「心の動き」となるのでしょうか?
否!!!入って来るのではなく、私たち自らが「集めているのです!!!」
これが「無無明・・・亦無老死尽」という12因縁の仕組みです。
入り口のフィルターも「汚れ・詰まり」、認識という「固定観念」でネジ繰り回しているだけのことです。
入り口からは「何が入って来ても良いのです!!!」、「また、勝手に入って来ます!!!」・・・ただし、「さらり」と味わう気持ちを持ちましょうよ?
これが「無?礙、無?礙」と言うことです。
例えば、台風の中、窓ガラスが割れんとするを心配し、手で押さえるより、どうせ割れるなら怪我のしない方法を取ること・・・これが「雑音」を「快音」と受け入れる手立てではないでしょうか?
これが「無苦集滅道」という方法なのです。
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