石鎚は「修験道」の御山であると昔から言われている以上、形だけでなく修験者(山伏)の気持ちを持って、これを実践する御山である。

 尚、修験と言う捉え方はこれに限らず色々あり、間口も奥行きも深いものがあります。

従いまして、これが全てではないことをあらかじめお断り致します。

 さて、修験道には大きく2つの目的があると言われております。
 一つは「悟り:人間形成」、もう一つは「慈悲:衆生済度」と言われております。


1.悟り:人間形成 

 まずは、「悟り:人間形成」からですが、修験道を語るには「山」が不可欠ではなかろうかと思います。
 その「山」を筆順を無視いたしますが、その字の形に注目して頂くと、縦に3本、横に1本の線で「山」と言う字が出来ています。

 この縦線は、

1)山そのものを含め礼拝の対象である神仏・諸尊
2)教え、教義(修祓・修行・鎮魂)、山の鼓動・森の息吹
3)修行者、信者、礼拝するもの

 を表すと言われております。

 次に、これを「山」の字の下の1本の線で離れない様に、すなわち横道に逸れない様に硬く結びつけているのです。

 すなわち、教義の実践であり、どんな小さいことも身体で感じ、全てが神仏の教えとして受け止めることです。

 神社仏閣・家庭の祭壇の前だけが信者ではないのです。

 日々の生活の中に、目上であれ年下であれ、どんな人から言われることも教えと受け留められる器の大きさ、それを育てることが「悟り:人間形成」であり、神仏の望む「あるべき人間の姿」ではないのでしょうか?
 

2.慈悲:衆生済度 

 同じ様に、「山」の字の縦線は、

1)山そのものを含め礼拝の対象である神仏・諸尊
2)神職、教会長、先生、行者
3)信者

 を表すと言われております。

 次に、これを「山」の字の下の1本の線で離れない様に、すなわち横道に逸れない様に硬く結びつけているのです。

 神事・仏事は一人でやるものではありません。ご祈祷・正式参拝など、信者の思い入れ・存在を無視しては何の意味もありません。

 また、神社仏閣に参拝するには、家庭で留守を守って頂いている家族・気持ちよく送り出してくれた方々がいるはずです。

 一般の信者さんも、ご自分の願い事をする合間に、この方々の幸福・諸願成就を願ってあげることが、すなわち「衆生済度」と言う「人を救う手助けをする」ということになります。
 

3.まとめ 

 では、この二つの目的を持っての修験道とは何でしょう?
 修験道には「山伏」と言う言葉が欠かせないKEYワードになります。
 「山に伏す:山に入る」から「山伏」と言う短絡的なことを言われる方もおられますが、「山」と言う言葉は前述の通りですが、「伏」と言う字は「人」と言う偏(へん)と「犬」と言う旁(つくり)から出来ています。

 すなわち、

1)「人」:神仏の御心に沿って生きる。
2)「犬」:獣・自分の思うがままに生きる。

 を表します。

 我々人間は、自分を見失い、ともすれば鼻高々と天狗となり、そっくり返る「獣!?」となりがちであり、神仏の御心に沿った本来のあるべき姿との狭間で葛藤して生きている。

 これが我々人間の修行かもしれないが・・・。

 この繰り返しの中で自分を磨いていく、「経“験”」「重ねていく・“修”めていく」のが「修験道」です。

 例えば、持ち物にしてもシカリ、例えば「引敷:ひっしき」という腰に着ける獣の皮がありますが、これも着けることにより、

1)地面が濡れていても座って腰が濡れない。
2)獣を皮まで使い供養する。
3)獣の皮を下に敷くことにより、獣・自分の思うがままに生きる気持ちを屈服する。

 特に3)の意味合いが「山伏」の「山伏」たる所以なのです!

 「験力」という言葉があります。これは、これらを総合した上での結果であり目的ではないのです。
 


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